白洲次郎のスポーツ観~ ラグビー ブランド化へのヒント ~

髙木應光(NPO神戸居留地研究会)、星野繁一(龍谷大学)

キーワード:サッカー、ラグビー、階級、差別化・ブランド化

【目的】
 2016年「リオ五輪7人制」や2019年「ワールドカップin 日本」の頃には、多少ともラグビー人気の回復が見込まれる。しかし、その時点でラグビーが、他のスポーツと同列であってはならない。即ち、差別化・ブランド化が進められていなければ元の木阿弥である。白洲次郎のスポーツ観をヒントに本レポートが、ラグビーの差別化・ブランド化を進めるための一助となればと思う。

【研究方法】
 白洲の出身校・神戸一中(現,神戸高校)の校友会誌、野球部史、蹴球部史、そしてケンブリッジ大学のアーカイブ、その他いわゆる「白洲本」から白洲のスポーツ歴を追跡・調査した。

【考察】
1)白洲のスポーツ歴:父・文平、叔父・長平らは
共に黎明期の野球選手として知られる。父は明治学院野球部の創設、叔父はインブリー事件や同志社野球部創設者として有名である。白洲は入学した神戸一中で、野球部及び野球委員(校内大会の係)に名を連ねているのもその影響であろう。2年次からは兄・尚蔵に倣いサッカー部員となり、やがて主将を努めるほど活躍した。1918年、全国フートボール大会(現ラグビー及びサッカー高校全国大会)が始まる。この県代表を賭けての試合では、宿敵・御影師範や関学と死闘を演じるほど熱のこもったものだった。この大会の当初15年間、連続で神戸勢が決勝へ進出している。その背景には神戸の外国人チームKR&ACの存在を見逃せない。彼らの試合を観戦し、胸を借り技術を学び、戦術を練ったからである。
国産乗用車が未だ無い時代、白洲は中学3年頃から米車(ペイジ・グレンブルック)を運転している。さらに、ケンブリッジ大学時代には「世界一早いトラック」と呼ばれたベントレー(英車)と「走る宝石・ブガッティ」(仏車)の2台を所有。
その車で世界初のサーキットコース「ブルック・ランド」を駆けた。さらに卒業記念は、親友ロビンとのスペイン・ジブラルタル往復ラリー。「オイリーボーイ」は、終生変わることがなかった。加えて、英国に於けるボートやラグビーの隆盛、その社会的地位の高さを知り感動。
帰国後には、日本水産で伊藤次郎(旧北野中,慶應,名レフリー)と共にラグビーを楽しむ。また軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長として、クラブ本来の在り方を重視した運営に取組んだ。そのため、時の総理大臣といえども勝手な行動を許さなかったほどである。
2)サッカーとの絶縁:神戸一中時代、白洲があれほど懸命に取組んだサッカー。だが、ケンブリッジ時代以降タッチした気配は全くない。彼がケンブリッジ時代に身に着けたスポーツ・行動様式・思考方法は、上流階級のものだった。親友ロビンが伯爵の子息だったから。英国のサッカーは、庶民のスポーツで、上流階級のスポーツではなかった。英国の階級差は歴然で、靴・バッグ・傘・服装などブランド品はもちろんのこと、言葉やスポーツにまで及ぶ。ボート・ラグビー等が上流、サッカー等は庶民、と明確に分かれていたのだ。

【まとめ】
白洲には三田藩・家老だった祖父の影響が見られる。彼は、スポーツマンシップと武士道、ジェントルマンと武士、その共通性を強く感じた。そしてサッカーというスポーツが、自らの生き方に相応しくないと結論づけたのだった。
 多発する不祥事は、ラグビー界の堕落を象徴している。白洲のスポーツ観をヒントに、ラグビーの差別化・ブランド化を進めることが、ラグビー界再生への大きな一歩となる。幸いにもラグビーは、近代スポーツの元祖である。この再確認と啓発を図ることも再生への大きな力となる。