「ラグビーの父」クラーク先生 横浜から神戸へ

「ラグビーの父」クラーク先生 横浜から神戸へ

高木應光(神戸外国人居留地研究会)
星野繁一(龍谷大学短期大学部)

キーワード:慶応大学、神戸の墓、京都帝国大学、文武両道、ジェントルマン

【目的】
 異説もあるが、日本ラグビーのスタートは、「1899(㍾32)年の秋、慶応大学に於いてE.B.クラーク先生が、田中銀之助の手助けによって学生たちにラグビーの手解きをした」ことに始まる。これが定説である。
 ところで、彼の墓が神戸・修法ヶ原の外国人墓地にある。横浜に生れたクラークが神戸に至るまで、どのような人生を歩んだのか。また、彼はどのような人物だったのか。「ラグビーの父」クラーク(1874-1934)の足跡を辿った。

【方法】
 クラークが書いた多量の手紙が残されている。中でも、伊津野 直(京都帝国大学・文学部書記)に宛てた手紙は500通にも及ぶという。今回は先行研究の成果を踏まえ、伊津野 直の著した「PROF.CLARKE’S LETTERS Ⅰ~Ⅵ」『ALBION 1934年7月~1935年5月』(京都帝国大学・英文学研究会発行)を主材料にして、クラークの人物像および人生を探ってみた。なお、英文訳は、長谷川芙美子氏の協力を得た。

【結果と考察】(*要点を箇条書きにした)

  • 学歴:横浜のクイーン・ヴィクトリア・パブリック・スクールにて文武両道、
    ケンブリッジ大学コウパス・カレッジでも文武両道、修士。英王立文学協会員。
  • スポーツ歴:ラグビー、クリケット、短距離走、カナディアンカヌー、サイクリングなど
  • 職歴:慶應大学、第一高等学校、東京高等
    師範学校、第三高等学校、京都帝国大学など
  • 転機:1907年(明治40年)右足切断(膝関節リュウマチによる)
  • 関係者:田中銀之助、ラフカディオ・ハーン(帰化:小泉八雲)(⇒服部一三)、厨川白村(⇒香山 蕃)上田 敏(⇒森 鴎外)、夏目漱石、藤代禎輔、矢野峰人、寿岳文章、など
  • 避暑:主として有馬
  • 特筆点:読書狂で博覧強記=「Encyclopedia Britannica Clarke」→ 京大クラーク文庫
  • 性格:バーバリーを着こなしシャイでナイーヴ ⇔ 世話好き、教え好き、義理・人情に厚い:ジョーク、駄洒落、ユーモアーもたっぷり
  • その後のラグビー:プリンス・マッチ(1922)、Y.C.&A.C.定期戦30周年(欠)/関西黒黄会(出)・講義・論文審査:シェークスピア、手作りプリントと教材準備 ⇔ 著作なし、死の遠因・余生の予定:神戸の中山手通3丁目18、聖マリア教会葬、神戸・春日野外国人墓地

【まとめ】
 クラークは、少年~学生時代を通じて文武両道の人。不幸にして右足切断、スポーツを断念。文=学問・教育分野で人生を全うする。人となりは、典型的なヴィクトリア朝ジェントルマン(スポーツマン)で、教育を通してノーブレス・オブリージュを体現した。